「趣味は人間観察です」問題

趣味「人間観察」とわざわざいうのはいまや恥ずかしいことだと思ってた(誰でもしてることを趣味とは言わない理論で)


トモトモ(!)から議案があがったので考えてみよう。
まず「趣味は人間観察です」表明は恥ずかしいのかという問題。これは結論から言って「恥ずかしい」です。「誰でもしてることを趣味とは言わない理論」はまあそうでしょう。「趣味は呼吸です」とかはそれはそれで斬新ですけど。しかしこれが「趣味はテレビを見ることです」「本を読むことです」だと程度の差はあれだいたいの人もそうしていることなのに、何となく印象が違ってきませんか。ポイントとなるのは人間観察の活動内容と、表明することの是非の問題。

タイプ1

「趣味の人間観察」といってもいくつかのタイプがあるわけです。たいていの場合は「外出の際、街頭や電車内などで目に入る人を『よく見る』」程度のもの。いくら「趣味」として『よく見る』度合いを強めたからといってこれに特別な価値を見出すことはできません。だって「趣味の為の時間」を割いてないわけですから。これをライト人間観察者としましょう。

参照
僕をあんまり見ないで下さい。:普段はノーネクタイ。 - AOLダイアリー

タイプ2

次に、「コミュニケーションの際にちょっと退いて『相手をよりよく理解しようとする』」というもの。このタイプは「知らない人」を観察対象にしません。同上により趣味と言うよりはその人のコミュニケーション作法でしょう。

参照
サンデー毎日の記 - 人間観察の方法

タイプ3

そして「野鳥観察(バードウォッチング)を人間へ置き換えたもの」。これを僕は趣味として認めます。野鳥観察がなぜ娯楽へとなりうるのかといえば、野鳥、野生の鳥は日常では見ることができないからです。仮に「通勤途中に電車の窓からカラスを見上げる」というのは趣味:野鳥観察ではありません。
必要なことは、趣味の為の行動をし、趣味の為に時間を割き、趣味の為のコストをかける、あくまで趣味が主体である、ということだと思います。
さて、では「野鳥観察」を人間へ置き換えるとすると「日常では見ることのできない人(これを野鳥になぞらえてに『野人間』とします)」を見る(必要ならば記録する)、「そのために実地へ出向く」「観察対象なりうる野人間が現れるまで辛抱強く時間を使う」これです。

表明することの是非

そもそも「趣味:人間観察」が表明されるようになった背景は「個性」のアピールであるといえます。メタな視点を持った「上手(うわて)な自分」表現。しかし前述したとおり「人間観察」は定義も曖昧で「誰でもしていること」になりうるわけで、個性促進を謳う現代社会・メディアの影響もあってか、「趣味を人間観察と言っておくこと」は大部メジャーになってしまいました。実際にgoogle:趣味 人間観察を参照してみても、それを冷笑、疑問視する声が多く見られています。つまりメタがベタになったのです。
そこで、出る杭にバールのようなもので新たなカウンターをばちこーん(画太郎)と打ち付けるサブカル野郎であるところの俺の出番です。「趣味:人間観察は恥ずかしいもの」という印象にならない為に、タイプ3のみを「真の人間観察者」とし、前2タイプとの混同を避ける為にそれを表明することもなく、淡々と実地で活動している人たちを応援していこう(実際に俺が見た限りでは「実地で活動している人」というのは居ます。そうじゃなくても「そのように見える人は」居ますし萌えます。「萌え」とは一方的な思い込みであり虚構を介した恋愛感情です! またそういうワナビーが生息しやすい中央線界隈だからかも知れませんが。)、と強くアジカン(カウンターアジテーション)したいわけです。